■炬燵で今年を振り返る その2
<2>
「ちょっと飲み物取って来るよ。すぐ戻ってくるね」
そう言い残し、福沢祐巳は部屋を出て行った。残された面々は、炬燵で丸くなりながら祐巳の背を見送った。
大晦日の夜はもうかなり更けている。
深いようで浅い理由で祐巳の家へとお邪魔していた志摩子と由乃は、炬燵に首まで突っ込んでしみじみと語り始めた。
「祐巳さんさ、今年はリーダーとしてがんばってくれたじゃない」
「ええ」
山百合会にリーダー選出の義務があるわけではない。しかし、皆の推薦により祐巳がリーダーとして務めたのだった。
「影からみんなの面倒見て、細々とした足りないところにも注意して。地味だけど丁寧で気配り上手なリーダーだったと思うの」
いわゆる由乃の、『リーダー祐巳評』であった。
しかし志摩子は、少し小首をかしげた。
「そう? 私には割りと、率先してみんなを率いてくれたように見えたわ。強くて頼もしいリーダーだったな、と思ってたのだけど……」
というのが、志摩子のリーダー祐巳評であった。
まるきり正反対の意見に、二人は不思議そうに顔を見合わせる。
確かに、言われてみるとそうだった気もする。
自分の意見とは正反対の側面も、確かにリーダーとしての祐巳にはあった。
しかし、自分の抱いた印象のリーダーとしての姿も、もちろんあった。
「……」
「……」
黙り込む二人。果たしてリーダー福沢祐巳とは何だったのだろうか。
「なんか気味が悪い」
「そうね……」
率直な感想だった。この一年リーダーとしてやり通した者に対してのねぎらいの言葉として、むごいと言えば余りにむごい。
気味が悪いというのは、印象の大きな差異もさることながら、”気味が悪いくらい皆をうまくまとめていた”という意味も含まれる。
よくわかんないけど、なんか上手くまとまってたぞ。
祐巳すげーな、と。
──しかし彼女たちは知らない。祐巳のリーダーとしての決意を。
彼女が血を流し、泥水をすすりながら得た、リーダーの資質を。
U リーダーの資質
ある春の日の放課後、薔薇の館。
祐巳と同じ三年生である島津由乃さんが、唐突に切り出した。
「今日はリーダーを決めようと思うんだけど、私は祐巳さんがいいと思う。志摩子さんはどう?」
「そうね。私も祐巳さんがリーダーにふさわしいと思うわ」
「じゃあ決定ね」
「ええ」
切り出された同じく三年生の藤堂志摩子さんは、当然と言わんばかりに頷いた。
「いや、ちょっと待ってよ」
しかし祐巳としては歯止めをかけざるを得ない。そんな、たった二言三言で……という絶望感があった。
「え、でも」
「だって……」
「でももだってもないよ。そもそも私たちにリーダーとか要らないし」
そう反論すると、由乃さんは待ってましたとばかりに語り始めた。
祐巳たちが一年生のときの薔薇さま方──彼女たちの代の山百合会は、上下関係が重んじられる秩序ある組織だった。
先輩と後輩。同じ仲間であり親しき間柄であるが、そこには明確な一線が引かれており、そこに上下関係が生まれるのだと。
(ただ例外として、姉妹という関係のみにおいて、単純な上下関係を超えたどこか秘密めいた関係として存在する)
しかし今の山百合会は、その『一線』が極めて曖昧になっている。
あるべき秩序が、崩壊の兆しを見せている。
付け加えて言うなら、去年からそうだったと。
言われてみると、納得できるところはある。
先輩と後輩という垣根は薄れて、実際そうなのだが、全員が友達のような関係になっている。
祐巳が一年生のときは考えられなかったことだ。
しかし二年生ともなると、慣れが出てくる。
環境に適応し、上級生に対しての対応力も身についてくる。
それは人間と人間の関係の変化である。むしろ進化と言っていい。
つまり上下関係が崩れたわけではない。もちろん秩序の崩壊でもなんでもない。
良い意味での慣れなんじゃないかな、と祐巳は思った。
水を差すのも何なので突っ込まないが、そこからどのように由乃さんがリーダーに関して持論を展開するのか、ちょっと気になる。
祐巳は由乃さんに、話の続きを促した。
「……理由としてはリーダーの不在ね。先輩と後輩の線引きを曖昧にさせ、あるべき秩序をなくしてしまう」
まことに恥ずかしい限りだが、うちの菜々にも上下関係を軽んじる傾向がちらほらと見られる。嘆かわしい限りだ。由乃さんは腕を組んでそう憂慮する。
うむう、と唸っているのを見るとギャグみたいだが、本人は(多分)大真面目だ。
ところで、なぜリーダーの不在が、あるべき秩序の崩壊に繋がるのか?
この話のポイントはそこだ。まるでぽっかりと空いた落とし穴のように、あからさまな突っ込みどころが用意されている。
そこに突入するのは、なぜか少しためらわれる。
「リーダーの不在と秩序の崩壊が、どう結びつくの?」
ためらう祐巳を見かね、志摩子さんが突っ込んでくれた。
しかし、なんか事務的な感じがしたのは、祐巳の気のせいだろうか……?
突っ込まれて気を良くした由乃さんは、調子良く続ける。
先輩と後輩という上下関係。組織の正しい秩序を保つためには、リーダーの存在が不可欠だと。
本来立場というものは、三年生⇒二年生⇒一年生、という流れで表される。古い言葉でそれを序列という。
しかし先輩と後輩の線引きが曖昧な今、三年生を基軸とした流れが作られにくい。特に三年生と二年生の間の線が薄まっている。
、後輩が先輩を先輩と思わなくなる。先輩のほうも、それが当たり前のように思ってしまう。
そのために必要なのが、リーダーというポジションだ。
山百合会にリーダー選出の義務はない。事実、昨年度にはいなかった。
祥子さまと令さま。どちらがリーダーでもおかしくないが、逆にどちらがリーダー、とも言い切れない感じがした。
昨年度は何事においても、みんなで話し合って進めていた。なので今年もその手法を踏襲していたのだが……。
しかし、祐巳たちが一年生の頃の山百合会には、確かにリーダーと目される人物がいたのである。
三年生が認め、二年生が慕った。そして一年生にも何となくそんな感じがしたと思わせる、正しきリーダーが。
時代の流れや風潮といった環境。
人間性の変化。
リーダーとしての存在感は、そういったものに左右されない。
絶対的と言うと少し語弊はあるが、組織の象徴たるリーダーという存在を、誰もないがしろにしたりしない。
リーダーという明確な立場を置くことで、リーダー⇒三年生⇒二年生⇒一年生、という流れが形成され、山百合会は再び秩序を取り戻すのである。
「……ま、分かりやすく言うと、誰かが締めなきゃいけないってことよ。でないと下級生が調子に乗るからね」
長々と語ってきた由乃さんは、最後にそう締めくくった。
内容もさることながら、二年生の頃かなり調子に乗っていた由乃さんが言うと説得力がある。
志摩子さんの方を見ると、何故かふと目が合った。同じ事を考えていたりしてね。
ともあれ、ここで黙っていてはリーダーにされてしまう。
祐巳は当然の反論に出ることにした。
「理由は分かったけど、別にリーダーが私である必要はないよね」
「そうね。だから、祐巳さんがリーダーとして相応しいと思う。リーダーに相応しいのは、祐巳さん。私はそう思う」
「どうしてそう思うの?」
「思うから思うのよ」
「んな、無茶苦茶な」
荒唐無稽な言い方につい呆れてしまう。
どうせなら、祐巳がリーダーであることの必然性に関しても、さっきみたいにがっつりと演説して欲しかったりして。
ともかく……。
こうだからこう、と言い張る由乃さんは、埒が明かないことに定評がある。志摩子さんの意見を聞きがてら、一時撤退することにした。
「志摩子さんとしてはどうなの? どうして私がリーダーなの?」
すると志摩子さんは、柔和な笑顔を浮かべた。
「私、一年生の頃からこうなったらいいな、って思ってたの。祐巳さんが薔薇の館にやってきた頃から。リーダーの祐巳さんと一緒に山百合会活動をやれたらな、って」
夢だったの、と志摩子さんはやわらかく笑った。
それじゃ理由にならないよ、とは突っ込みがたい笑顔だった。由乃さんも大きく頷いた。
「はいはーい。私も思ってた。具体的に言うと一年生の前半くらいから!」
「あらそうなの。実は私ね、祐巳さんと同じ一年桃組になった時から思ってたのよ」
「いやいや、実は私は中等部の頃からでしてな……」
志摩子さんと由乃さんが地味に張り合ってる。
あのさ、二人とももっと大事なところで張り合おうよ。
祐巳は溜め息をひとつつく。そして決心した。
積極的にそうなりたいわけではない。しかし信頼すべき仲間たちが推してくれるなら、それに答えてみよう、と。
「わかった。私リーダーやる」
そう言うと志摩子さんと由乃さんは、手を取り合って目を輝かせた。
さっきまで張り合っていたのに!
「ただし! 条件が二つあるよ」
歓声をあげようとする二人を手で制す。手を取り合ったまま二人はこくこくと頷いた。
祐巳が提示した条件とはこうだ。
ひとつ。リーダーといえど私たちは対等であること。
ふたつ。薔薇の館にいるときは最大限協力して欲しいということ。
つまりは今までと同じ。
私たちはこれまで対等だったし、薔薇の館では互いに協力しあって難局を乗り切ってきた。
祐巳がリーダーだからといって下手に出られたり、逆に何でもかんでも押し付けられたら嫌だから。
祐巳がきっちりとそう言うと、さっきの倍くらいの勢いで二人は頷いた。
「もちろん。対等に決まってるじゃん。仕事だってちゃんとやるよ」
「ええ。でも今の祐巳さん、ちょっとリーダーっぽくて格好良かったわ」
「そ、そうかな。でへへへ」
「リーダーその笑い方ちょっと気持ち悪い」
そんな感じで三人で笑いあう。まったくいつもの光景だった。
その後、薔薇の館にやってきた妹たちにも事の次第を話し、祐巳がリーダーをやるということを認めてもらった。
山百合会にリーダー選出の義務があるわけではない。そして、方法が定められているわけでもない。
だから二年生たちから選出したって構わないのだが、彼女たちは快く理解してくれた。
瞳子と乃梨子ちゃんがなにやら楽しげに話している。
「私たちのときはどうしようかね、瞳子」
「先に妹を作ったほうに”決定権”があるというのはどう? 自ら名乗りを上げてもいいし、或いは相手に押し付けてもいい」
「なかなか面白そうじゃん。でもたまたま同じ日だったらどうすんの?」
「より可愛い妹を連れてきたほうが勝ちとか……?」
「君たちふざけるのも大概にしたまえ」
祐巳がもっともらしくそう言うと、皆がわっと笑った。
日頃おだやかな時間がまったりと流れる薔薇の館であるが、今日は大いに盛り上がっていた。
──だから油断があったのかも知れない。
リーダーというものの存在。
その意義。
その役目を請け負うにあたりすべき覚悟。
わかっていたつもりでも、その時の私は全く分かってなかった。
ほどなくして私は、それを嫌というほど知ることになる。
◇
「ごめん。ちょっと頭冷やしてくるよ。すぐ戻ってくるね」
そう言い残し、福沢祐巳は会議室から出て行った。
残されたメンバーたちはかける言葉もなく、ただ彼女の背を見送った。
ばたん、とビスケット型の扉が閉じる音がむなしく響く。
続けてあるはずの階段を下りる軋み音は聞こえてこない。周知の通り、薔薇の館の階段は、一ヶ月ほど前に補修工事を施されている。
しばらくは皆が、お通夜のように無言だった。
やがて最初に口を開いたのは島津由乃だ。ぱしんと軽く手を鳴らし、つとめて軽い口調で切り出した。
「はい、みんな息吐いてー」
そう言うやいなや、「ぷはぁ」とわざとらしく息を吐いたのは二条乃梨子だ。
「祐巳さま怖かったー」
「ぱっと見、怒ってるように見えないのが逆に怖いですね」
微妙にひきつった笑顔で言うのは有馬菜々。
「でも、祐巳さんが怒るのはもっともだわ。少し私たちの配慮が足りなかったのではないかしら」
ビスケット扉の向こう側を見るように言うのは、藤堂志摩子。
口々に皆が感想を述べる中、祐巳の妹である松平瞳子だけが、テーブルの一点を見据えてじっと黙っている。
──日頃は平穏な山百合会に何があったのだろうか?
発端はとある一つの提案だった。
提案したのは、リーダーの座に着任してから一週間ほど経つ祐巳である。
内容としては、山百合会の活動日を定めたらどうか、というものだった。
集まれる人間が流動的に集まり活動を行う、という現在。部活動や委員会と掛け持ちしているメンバーも多く、毎日全員が集まるということはない。
集まりが悪ければその日は活動を行わない。しかしそれでは、いかにも効率が悪い。
だから活動日を決めよう、という祐巳の提案だった。
山百合会の面々は人は好いが、常に物事に対して満場一致ということになならない。今回の提案に対してもさまざまな意見が挙げられた。
部活との兼ね合いがあるから、活動日は決まってない方がいい。
決めてもらった方が自分の予定が立てやすい、など。
結果としては賛成が三人、反対も三人だった。
山百合会では、議題に対して、ほぼ全員賛成で実施という暗黙のルールがあるので、半々の割合だとしたら実施はしない。
言いだしっぺの祐巳もそれに習った。ではこの提案は不採用ということで、と締めくくろうとしたのだが、思わぬ横槍があった。
「……すいませんでした。私が原因です」
ぺこりと頭を下げたのは瞳子である。頭の左右の縦ロールも、消沈したように萎れている。
いやいや、まあまあ、と皆は瞳子を慰める。
しかし本人が言うとおり、きっかけはおそらく彼女にあった。
議題を締めくくろうとした祐巳に対して瞳子は率直に切り出したのだ。リーダーとして良かれと思い提案した意見を、簡単に引っ込めないで欲しいと。
祐巳はやや驚いたようだったが、やがて小さく笑った。「そうだね。私がリーダーだものね」と。
その後、再度の話し合いが行われた。
賛成者と反対者の数は同じ。しかしひとつ違うのは、言いだしっぺである祐巳が不退転の気持ちで望んだことだ。
しかし新たな説得材料が持ち出されたわけでもない。
結果的に反対者と揉めて……そして祐巳は頭を冷やすと一人出て行った。
「……お姉さまのところに行ってきます」
意を決したように瞳子は立ち上がった。ぺこりと一礼し、皆の返事を聞く前に会議室を出て行ってしまった。
「肩の力抜いて! 気楽に行こうぜーーー!」
「うっさいわね! 言われなくてもわかってるわよ!!」
乃梨子が会議室の外に向かって元気よく叫ぶと、バネが弾むように元気よく返事が返ってくる。
重かった会議室の空気も、少しだけ軽く、元気になったようだ。
◇
薔薇の館から校舎への道を瞳子が歩いていると、偶然にも祐巳と出くわした。意外と早い再会であった。
「お姉さま」
「瞳子。どうしたの?」
聞くところによると祐巳は、頭を冷やすついでにと教室に忘れ物を取りに行って来たらしい。瞳子としてはとんぼ返りだが、姉妹並んで薔薇の館に引き返していく。
「さっきはすいませんでした。お姉さまを焚きつけるようなことを言ってしまって」
「ん? 気にしなくていいよ。最悪ああなるかなって予想はしてたの。ぜんぜん怒ってないから」
祐巳は意外とさばさばしている。
薔薇の館への道すがら、祐巳はぽつぽつと語りだした。
山百合会の活動日を決めたいと常々思っていたのは事実だが、皆の反対を押し切ってまで施行するつもりは無かった。
人それぞれだが物事には引き際というものがあり、祐巳としてはあそこが引き際だった。それは分かっていたことだ。
ならば何故そこで押したのかと言うと、『試しに押してみたかったから』だというのだ。
「試しに……ですか。どういう狙いだったんですか?」
「うん。話すと長くなるんだけどね。実はね」
「じゃあ、そこで少しお話しましょう」
瞳子がゆび指したのは、木陰にあるひとつのベンチ。天気の良い日の昼休みには、仲の良い姉妹が一緒に弁当を食べたりもする落ち着ける場所だ。
二人はそこに腰を下ろした。
「……ところでお姉さま、アメ舐めてますね」
「うん。自分の机に飴入ってるのさっき思い出したから」
口をもごもごさせながら祐巳は答える。
まさか忘れものとはと瞳子が少し呆れ顔でたずねると、祐巳はあっさりと頷いた。
「やっぱり、いらいらした時は甘いものに限るよね」
「本当に怒ってないんですか〜?」
祐巳はどこからともなく飴の袋を取り出した。
ちなみに飴などのお菓子類──お茶請けになりそうなものは薔薇の館にはない。ありそうでない。
「瞳子もアメ舐める?」
「ちょーだい、ちょーだい」
しばらくの間、姉妹はベンチで(アメを舐めていたから)無言だった。
やがて祐巳が(先に舐め終わったから)語りだした。
瞳子は(まだ舐め終わっておらず喋りにくいので)祐巳の話に熱心に聞き入った。
「みんなに推してもらってリーダーになったはいいけど、結局リーダーって何なんだろうな、と思って」
これまでは漠然としか考えてなかった。
メンバーたちをまとめ、正しい軌道に導くのがリーダーの目的だ。そのための手段は幾通りもあるのだろうが、祐巳はこう考えている。
みんなの意見を大事にする。
意見が出ない時などには、率先して意見を出す。
盛り上がっている時は、軌道調整程度に留める。
盛り上がらない時は、率先して場を盛り上げる。
リーダーとして認めてもらってから時間はまだほとんど経っていない。その間に考えたことといえばその程度だ。
足りない部分を補っていくようなリーダーとして振る舞うこと。自分に出来るのはせいぜいそれくらいだろう、と。
しかし、先の瞳子の指摘で、ふと祐巳は考えた。
もっと強気に、皆を率いていくようなリーダーに果たして自分はなれないのだろうか。
その資質が……リーダーとしての資質が私にあるのだろうか、と。
「……まあ結果はごらんの有様だったね。しばらくはやらないと思う」
結果として自分の強気な姿勢が、争いの火種を撒き散らしたことに対して、祐巳は自虐的に笑った。
だがまあ祐巳なので、温厚で子供っぽい笑顔とも取れる。
「一回や二回で諦めないでくださいよ。今日はたまたま調子が悪かっただけです」
「そういうことはあるかも知れないけど、どっちにしたって偉ぶってる私とか誰も見たくないでしょ」
お姉さまは分かってない、と言おうとして瞳子は止めた。
格好良くて偉い姉に憧れない妹が果たしているのか、と。
妹であった頃の自分に置き換えてみれば、あっさりと分かるはずなのに。
縦ロールをくるくる弄りながら悩んだが、結局瞳子はそのことを言わなかった。
姉妹となる前なら言えたはずだ。
当たり前のように毎日顔を合わせ、まるで友達のような姉妹の関係。このひどく穏やかな時間が、今の瞳子にとって手放しがたいものとなりつつある。
そう。言わなかったのではなく、言えなかったのだ。
私も、そしてお姉さまも。何か致命的な勘違いをしている。
いつかそれが牙をむく。
暗闇でじっと、獲物を狙うようにして牙を鋭く研いでるのだ。
しかし、瞳子の頭をよぎったそんな予感は、この温かい時間が霧散させた。
「これからどうするんですか?」
「うん。取り合えずみんなにもアメ配ろうかなって」
「違いますよ」
「ほえ?」
今これから何をするのかではない。
リーダーとしてこれからどうするのか、という瞳子の質問だった。
「そうだね。ちょっくら会いに行って来るよ」
祐巳はどこか遠くを見るような目をした。
かつて山百合会のリーダーを務めていた、偉大な先輩に、と。
◇
同じ週の金曜日、夜の六時二十分。
何故か祐巳はM駅の前にいた。
目当ての人に電話で連絡をとった際、この場所で待っていて欲しいと言われたのだ。
駅前繁華街ということで、薄暗くなりつつある雰囲気と反比例するように人で賑わいを見せつつある。
多いのは会社帰りらしいサラリーマンの人たち。中には数名で集まり、楽しげに喋っている者もいる。これから宴会でもあるのだろうか。
そんな人々をぼんやりと眺めながら、祐巳は居心地の悪さを感じる。
きっと、今くらいの時間帯に出歩くことに慣れていないからだ。
家族たちは、自分たちの娘が夜分に出歩くことをひたすらに不思議──というか不安がった。
当然といえば当然だと思う。
しかし、会う人物がリリアン女学園の卒業生で、山百合会での先輩なのだと説明すると状況は好転する。
母親がそれなら安心と許可してくれた。父親も、母さんがそう言うならと納得してくれた。
ちなみに弟は初めから反対も賛成もない。それが特別なこととは思ってないからだろう。
ということで現在、六時二十五分。
待ち合わせの時間は半だから、そろそろかなと思っていたところで、目当ての人物の姿が見えた。さすがの五分前行動。
「お久し振り、祐巳ちゃん」
「……ごきげんよう、蓉子さま」
山百合会の先輩であり、祐巳より二代前の紅薔薇さま。麗しと情熱の人、水野蓉子さまだ。
白いブラウスの上に春らしく薄いセーター。
紺のタイトスカートにヒールを履いた落ち着いた格好。
まるで、どこかの個人事務所にいる事務のお姉さんみたいに見える。
「ああ、これ? バイト帰りなの」
格好をがん見していた祐巳に、蓉子さまが説明してくれた。
実はこの四月から、とある法律相談所でアルバイトしているのだと。二十歳にはなったが、あまり子供っぽい格好ではまずいらしい。
「それにしてもお腹ぺっこぺこ。一緒にご飯食べに行きましょ。今日ちょうどバイト代が出たから……」
なんだか目まぐるしくて祐巳がついて行けずにいると、蓉子さまはしまったという風に舌を出した。
「……ごめんなさい。少しせっかちだったかしら。バイト終わるといつもこんな感じだから、いつもの癖で」
「アフターファイブってやつですね、わかります」
「こんな時間だけど、家の方は心配なさったりしなかった?」
「あはは。そんなに子供じゃないですよ〜」
別に本当のことを伝えても良かったのだが、今更かつての肩書きの話を出されても当惑されそうで怖かった。
さっき自分が戸惑ってしまったのは、祐巳自身が蓉子さまに『紅薔薇さまの水野蓉子』を求めていたから。
かつて薔薇の館で共にした時間の延長みたいなのが欲しかったのだ。
しかし、自分の思い込みが通らなくてヘソを曲げたりするほど、私は子供じゃないはずだ。
……たぶん。
「蓉子さま、すっかり社会人ってカンジですね」
当時から大人びた女性という印象だったが、今はもうすっかり大人の女性にしか見えない。
見た目も、雰囲気も。ちょっとした立ち振る舞いや、話す言葉も。
「感受性が劣化しちゃっただけよ。いつまでも子供心を忘れたくないって思ってるんだけどね」
苦笑しつつ蓉子さまはそう答えた。
──感受性が劣化しただけ。
かっこいい……と祐巳は思った。いつかチャンスがあればそのセリフ、私も使ってみせようぞ、と。
「手、つなぐ?」
「はーい」
差し出された蓉子さまの手に、祐巳はそっと自分の手を添えた。
そうして暮れ時の街を二人で並んで歩いていく。
この人は私のお姉さまではない。しかし、なんだか”お姉ちゃん”と手をつないでいるような気持ちだった。
◇
さて、歩くこと五分ほど。
”お姉ちゃん”こと蓉子さまに連れてきてもらったのは、少々いかがわしい(?)お店だった。
「蓉子さま、ここって……」
「ご飯食べるところだけど、何か?」
とある店の前で立ち止まった蓉子さまは、うろたえている祐巳を見てにこにこしている。
お店の看板には、祐巳もよく知る名前が書かれていた。世間事情にうとい祐巳にもこれくらいは分かる。
「ここって、居酒屋さんってとこですか?」
「その通り。別にお酒だけじゃなくてちゃんと食べ物もあるから。ファミレスみたいな感じね」
蓉子さまはそう言うが、お酒があるということは、店員さんに頼めばお酒が出てくるということだ。
まさに青天の霹靂。このような状況で飲酒の機会に恵まれるとは──!
「……なんか高ぶってるみたいだけど、祐巳ちゃんにお酒は飲ませないわよ」
「えーっ」
「えーっ、じゃない。当たり前でしょ。私も今日は飲まないから」
あと二年我慢することと、自分でお金を稼ぐようになること。
二つの条件をちゃんと満たしてから飲んでね、と蓉子さまは笑った。
店内に入ると。四、五人が座れる席に通された。
確かにファミレスなんかと似たつくりで、もっとまったりと出来る感じ。 ただひとつ、大きく違うのは雰囲気だ。
「すごい賑やかですね」
小声では通らないくらいの騒々しさ。つられてテンション上がりそう。
「金曜の夜だから特に混むわね。賑やかなのは苦手?」
「ぜんぜん苦手じゃないです。薔薇の館もいつも賑やかですよ」
「へえ。私がいた頃よりも?」
「あはは。賑やかさなら負けませんよー」
そんなことを話しながら、蓉子さまと二人でメニューを眺める。
残念ながらお酒の許可は出なかったので、ソフトドリンクのメニューの中からオレンジジュースを選んだ。蓉子さまはウーロン茶をチョイス。
ちなみに、一介の高校生ごときが”選んでいく”とか言っているのには激しい違和感がある。
祐巳のお小遣いは一ヶ月○千円。好き勝手に飲み食いするには程遠い。
しかし今日は、母親が夕飯代としてお金を持たせてくれたので、一安心である。
「それじゃ、乾杯」
「かんぱーい」
グラスとグラスをチンと鳴らして、さっそく一口。日頃飲むオレンジジュースとは味が違うような気がした。
注文した料理も、すでにテーブルに並べられている。蓉子さまはそのうちのひとつ、軟骨のから揚げに箸を伸ばす。
「私たちが卒業してから山百合会はどう? 上手くやれてる?」
枝豆をつまみながら祐巳は答えた。
「そうですね……最近、薔薇の館の階段が壊れました」
「ええ?」
薔薇の館の階段が壊れたのはごく最近のことだ。
祐巳が落下して骨折したことから、薔薇の館を残す活動をした顛末までを話した。
いつか壊れると思ってたのよ、と蓉子さまは眉をひそめる。蓉子さまが一年生だった頃からかなり危険な状態で、さらにそれ以前からも危険性を指摘する声はあったらしい。
「祥子には直すように言っておいたのよ」
「そうだったんですか」
「私もお姉さまに直すように言われたんだけどね」
「えー」
オレンジジュースで人は酔わない。いくら祐巳が子供だといっても。
しかし祐巳はたぶん、雰囲気に酔っていた。食べて、飲んで。だいぶ饒舌になっていたみたいだ。
蓉子さまは随分と山百合会のことを気にしてくれた。
恐らく話のタネは底なしであるが、あいにく時間は限られている。
だから、山百合会についてどうしても聞きたかった話を持ち出すことにした。
「……蓉子さまの時に、山百合会にリーダーという人はいました?」
祐巳にとっては本題だが、精一杯さりげなく切り出した。
この話を聞くことが目的なのは変わらない。
しかしそれでは、ただそれだけのために会うみたいで何か嫌だ。
だがこうして”大人な”蓉子さまと接すると、それが子供じみた感傷だってことが良く分かる。
うーん、と少し蓉子さまは思案顔だった。
「基本リーダーというのは山百合会にはいないけど……」
まあ私だったのかな、と蓉子さまは苦笑いを浮かべた。やはりと祐巳は頷き、ストレートに伝えた。
──実は私、リーダーに選ばれちゃったんです、と。
◇
週が明けて月曜日の放課後。
いつもと同じように、てくてくと祐巳は薔薇の館を目指していた。
ときおりすれ違う生徒たちが挨拶をしてきてくれる。
これまたいつもと同じように笑顔で挨拶を返すが、少しだけいつもと違うような気もする。
それは恐らく本当に気のせいだ。
普段会わない蓉子さまと、いつもと違う場所で、いつもと違うことを話し、そして聞いたせいだろう。
だから、そんな気がするだけ。でも、全くしないよりはましとも思う。
──リーダーに選ばれたという祐巳の告白に対しての、蓉子さまの反応はというと……。
「……祐巳ちゃんは運がいい」
という何故か確信めいた一言だった。
運がいいと確信されても、祐巳には身に覚えがない。むしろ運が悪いとさえ思える。
しかし、蓉子さまの言い分はこうだ。
今の山百合会の一年生と二年生のことは詳しくは分からないが、今の三年生たちの中でのリーダーならば、むしろラクが出来て良いばかりだと。
「ラクな事なんて無いですよぉ〜」
「ものは考え方ね。だって志摩子と由乃ちゃんでしょ。彼女たちなら、わざわざ祐巳ちゃんが何か頼まなくたって、率先してやってくれるでしょ」
あなたはリーダーとして、座って待ってればいい。蓉子さまはそう断言する。
座って待ってるかどうかはともかくとして……。
確かに彼女たちは、それが必要なことだと判断すれば、祐巳が頼まなくたって何だってやってくれる。
しかし、それが必要でないと判断したなら、やってくれない。
テコでもやってくれない。
この間の活動日についての話し合いを思い出し、祐巳は身震いした。
「世の中にはいるのよ。全部リーダー任せにして自分は何もしない人が……人たちが」
「はあ、そんな人たちが」
そんな人たちにも随分と会っていない。元気にしているだろうか。
「基本そういう人たちは、率先して何もしない代わりに文句も言わないから。私は舵取りして、彼女たちにオールを漕いでもらっていた感じね」
恒常的にそのように振る舞っていたことで、いつしかリーダーっぽくなってしまっていた、と蓉子さまは振り返る。
となると確かに、何もしない人がいない今の山百合会で務めるリーダーというのは、ラクといえばラクなのかも知れない。
全員で舵を取り、全員でオールを漕ぐ。それを嫌がる人は今の山百合会にはいない。
しかし、ふと足りない部分が見え隠れすることもある。
そんな時はみんなを盛り立てて、気遣って、足りないところは補って。そんなリーダーでありたいと思っていた。
だがそれだけではない。ときに率先して矢面に立つときもある。
そのときリーダーらしく振る舞えるのか?
みんなを引っ張っていけるのか?
そんな度胸が、今の私にあるのか?
試してみたくなったのが、瞳子の指摘があった時だ。
結果としては敗北だった。リーダーの名の下に仲間をまとめられないのに、引っ張っていくも何もない。
そのとき思い出したのは蓉子さまのことだった。みずからの意思のもと、個性的な面々をよくまとめているように感じた。
仕事もこなし、仲間の面倒も見て、リーダーとしての毅然とした態度も崩さない。
今あらためて、蓉子さまの完璧ぶりを思い知らされる。
しかし、蓉子さまは少し苦笑気味に答えた。
「江利子も聖も基本的にやる気がなかったから。令は聞き分けのいい子だったし、一年生の子たちは……祐巳ちゃんたちは、まだ、よく分からないことが多かったでしょ」
だから主に一人で仕事の段組を立て、それから聖さまや江利子さま、他の仲間たちに指示して進めていたということだ。
「それってなんだか……」
「ん?」
率直な感想だった。それでは仲間というものがありながらも、あまりに孤独だったのではないかと、今更ながらに同情の念がわいた。
孤独という言葉を持ち出すと、蓉子さまは盛大に笑った。
「ふふふ。言うほどじゃないわよ。いつだって同じ場所、薔薇の館にみんないたんだから」
しかし時折に、ふと孤独を感じることもあったという。
そんな時は自分にこう言い聞かせた。
リーダーは孤独なものなんだと。そういうものなんだと。
だから、リーダーを引き受けるというのは、少なからず孤独を引き受けるものだという覚悟が必要なのだと。
「そういう時は、たいてい祥子がそばにいたかしら。あの祥子が、そんな時だけくだらないお喋りに付き合ってくれたりね。妹ってありがたいものね」
「祥子さまが……」
「うん。だから割とね、どうにかなるものよ。今のうちに色々試してみるといいわ」
きっと見つかるから。自分だけのリーダーの資質が、と。
蓉子さまはそう言うとぐいっとウーロン茶を飲み干した。
『これであなたもリーダーになれる! あの水野蓉子がこっそり教えるリーダーの資質!』
……なんてね。そんな話を期待してた頃もありました。
蓉子さまいわく、リーダーの資質とは自分で見つけ出すもの。だから祐巳にも然るべきリーダーとしての姿があるのだと。
だから、蓉子さまと祐巳とではその姿が異なる。
ただひとつ共通することといえば、先ず仲間ありきということだ。組織のためとか、自分自身のためじゃない。仲間のために砕身するのがリーダーなのだと。
リーダー任せで自分は何もしない人のことを慮って、蓉子さまはリーダーとしてみんなを率いたのだ。
ときに孤独を感じるときもあるかも知れない。
仲間のためにと走り回っても、それが空回りに終わることもある。
けれど、分かってもらえる。だから割とどうにかなるのだと。
見つかるだろうか。この場所で。私だけのリーダーの資質が。
目の前には見慣れた薔薇の館がある。
今日は月曜日。だいたい平均的に、月曜日というのはメンバーの集まりが良い日だ。
きっとみんないる。私には分かる。
「……よっしゃ、行くぞ!」
両の手のひらで自分の頬を軽く叩く。ぺしゃっとなんだか間抜けな音がした。
そして、今日も仲間たちがいるあの場所へ、祐巳は歩いていった。
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※2010年6月1日 掲載
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